生死観を考える
どんなにいつも強気で攻撃的な人でも、いざ病魔に襲われた時には己の無力感にひれ伏します。これは人間ならごく自然なこと。おそらく人間は自身の経験から過去、現在、未来を比較し予測できるからだと思うのです。
病気に罹った時の性差
訪問リハビリをしていた時に、リハビリの成果が出にくいのは男性に多かったことを今でも思い出します。男性は、過去の栄光にスポットをあててしまうようで、現実を直視できず上の空でリハビリをしてしまうフシがあります。それに比べ女性の方は現実的なので、着実にリハビリを行い、できるところから実行。これが後に大きな差を生むのです。
男性向けの雑誌は『筋トレをしてモテよう!楽器が弾けるとモテる!』と言った、それをするまでの長すぎる道のりは無視して、いきなりモテる究極の方法を示唆する傾向があるのに対し、女性向けの雑誌は『目を2倍にデカくするメイク!モテるための写真の写り方!』など即実践でき、具体的に問題を解決する方法を示唆する傾向にあります。これは性別によるもともとの脳の構造の違い、としか言いようがありません。
病気に対しては女性はちょっと有利にできているように思いますね。病気というものは『圧倒的な現実との対峙』です。ノスタルジーは通用しないということ。
動物と人間の生死感
病気を経験して人生観が変わったり、障害を持ったことで人間としての奥行きが増すことがありますが、やはり健康であることはどれだけ威力があることなのかを物語っています。
男女の根本的な違いはあるものの、前述した通り、人間は経験から未来を予測します。病気によって未来に陰りが出てくると途端に気弱になり、まだ生きているのに心がほぼ死んだかの状態になるというわけです。
一方で、動物は『死』というものを知らないといいます。
動物にとって病気による痛みや不具合は『外敵に襲われる恐怖と同じ』という考えがあります。人間は今後を予測して悲観的になるのに対し、動物は今現在の痛みと戦っているだけ、ということ。そのため自分が一番安心できるところに行きますね。ついの住処を探しているというより、外敵から身を守れる場所に行こうとしているのだと思われます。
動物が病気になった時の姿を見ると私は圧倒させられます。彼らは弱々しく倒れつつも凛としています。私達人間が助けようと薬をエサに混ぜたところで食べやしません。治療のために病院へ連れて行ったってそれがむしろストレスになるといいます。
単純に『生きる』ということはこういうことなんだな、とつくづく思います。
植物を見て思うこと
植物はどうでしょう?彼らは死ぬことと繁栄することが同時進行のように思えます。枯れるということは新しい芽が出るということ。鶴岡八幡宮の大銀杏は嵐で倒れましたが、復活はないまでも小さな芽が次から次へと生まれています。気にせずどんどん生きるところが凄まじい逞しさです。しろたえに置いている梛の木は御神木としてよく神社にあります。この木は空気中の水分で冬場は充分なくらい乾燥に強いといいます。そして、独特の成分が含まれているので周りの木と共生しにくいのだそうです。植物にはしばしばこういう『周りを枯らす』タイプのものがあります。もし人間だったら『悪者』にされるでしょうね。
人間だったらそういう生き方は良くない✋と言って矯正されるか、淘汰されてしまうかもしれません。しかし、自然界においては単なる一個性なのです。
こうやって考えると病気も死も、生き物である以上みんなに平等に訪れるし、罹る可能性があるのです。それも含めて生きるということなのですね。今まで生き物の話をしてきましたが、土台となる大地や海、空と言った自然界は『全てのものを受け入れてくれるが甘くない』といいます。拒絶も否定もしないけど、平等ではないし決して優しくない。そういうところに生きていることを今一度肝に命じたいですね。
今年は折に触れ死について考えさせられます。感染症の蔓延で、健康志向の高い日本人にとっては克服が困難な、センシティブなお題を突きつけられています。
私が担当しているのは健康の分野。健康であることのお手伝いをしていますが、やはり抗えない『死』に対しても考える必要があるのです。死に固執するばかりに生を蔑ろにしたくないですね。今を大切に、そして全力で生きることを何よりも大切にしていきたいものです。