重症心筋梗塞から生還、その後
2022年6月、心筋梗塞を起こした母。1日中痛みを我慢し続けたため運ばれた時は重症で、なかなか強心剤の持続点滴が外せず退院のメドが立ちませんでした。
が!僅か入院1か月半で本人の強い意志により無理矢理退院。初日に死ぬと言われていたけど、何とあれから2年が経過しようとしています。こんな生き方もあるのだな、と参考にしていただければと思います。
運ばれたものの…
母は重症心筋梗塞で入院しましたが、本当に一旦死にかけました。
助けて欲しくて病院へ行ったのではなく『我慢をした挙句に痛みがおさまらなかったために、ギブアップという意味』での救急搬送でした。
あまりに重症だったため、処置もバルーンパンピングくらいしかできず延命にもなっていない、今この瞬間にも亡くなる可能性があると担当医から説明があるくらい重症でした。なんと、稼働している心臓はたったの1/3です。
そんな母は6本の管に繋がれて一命を取り留めましたが、ここからが本当の戦いでした。
本人としては助かる気はなかったのに、こうして管に繋がれてしまって高額医療の恩恵を受けている…母の生死観は昔から決まっていて、極力余計なことはせず、無駄遣いをしたくないという気持ちでした。
だから、以前から『もうそろそろ終わって良い』と考えていました。
心臓は想定外だった
前日まで普通に生活していて、家系に心臓病もおらず基礎疾患もなく、何しろ痩せていて低血圧の母ですから、心臓にくると誰も想定していませんでした。
母とは最低限の処置をしてICUに移る途中、少し話ができました。
その時先生が『とりあえずこのまま3週間です』と。首、手首、大腿部の付け根両方を管が通っていて、これが取れるまで退院はできないのだそうです。母はもともと腰痛を患っており上向き固定で3週間と言われ軽く発狂しました。
そして3日で『家に帰る』と言い出しました。
コロナ禍真っ最中だったので、一般病棟に移っても面会は不可能。LINEで途切れ途切れにビデオ通話できるかできないかという毎日が続きました。家族は毎日お見舞いに病院へ通いましたが守衛さんのところまで。大変な思いをしている母の近くに行くことができず、気が狂いそうになりました。
母が退院する条件は、まず必要最低限の血圧を維持すること。
血圧が低すぎて強心剤の点滴が外れないことが最大の難所です。外せばその日のうちに亡くなる可能性がある、ということ。それでも母は『死んでもいいから家に帰る』と言い、入院一週間で大腿部の管を抜くことになりました。家族の同意はもちろん必要ですが、私達は母からよく生死観を聞かされていたので『本人の思うようにしてください』と先生に伝えて、抜管に備えました。
ところが、驚くことに抜管しても母は急変することはありませんでした。
そのかわりに薬が増えているので、それも危ないことだと脅されましたが。時々LINEで見かける母は首と手首に点滴による大きなアザがあって、私としても(もう死んでも良いから家に帰ってきて欲しい)という気持ちです。こんな考え、合っているかわかりませんが。
その後も母の意思で管はドンドン抜かれていき、1か月後の7月には最後の3本になっていました。
このまま生きる意味は?
とにかく、ドクターに直接『もう治療しなくていい』と交渉をし続けた母。それでも最後の3本が取れるまで7月に『退院にはあと3か月かかります』と言われて、覚悟を決めたそうです。
入院中、強心剤を減らすと胸水が貯まるという無限ループだったらしく、せっかく減らした胸水がたちまち貯まってきて7月に軽く振り出しに戻っていました。
母は入院中、何もかも看護師さんに頼むのが辛い、外の風やお日様を感じたいと言っていました。ついでに言えば、心臓よりも腰が痛いという譲れない事情がありました。
そして、母はドクターに『来週全部外していいです、家に帰らせてください』と言いました。
ドクターは他のドクターの意見も聞いて考えます、と言い、結果その一週間後全ての管を外して退院することに決まりました。入院から僅か1か月半です。
私と看護師さんは速攻『おめでとう!』と喜びましたが、他の家族は複雑な気持ちもあったようです。何しろ『病院にいる限り、一応死ぬことはない状態』。家に帰るということは、死んでいくところを私達が見ることになる、ということ。ドクターもそれは念押ししていました。
それでも私は病院で眠剤を飲んでうつらうつらしながら、毎日売店に連れてってもらうだけが唯一の息抜きという母を見ていられませんでした。
おそらく、喜んでくれた看護師さん達も同じ気持ちだったでしょう。生きる意味をあらためて考えさせられる。病院にいる母は母ではない、母らしくないよ、と私は思っていましたから。
とはいえ、お迎えに行った当日、管を抜く瞬間は気絶しそうになりました。会う前に亡くなる可能性もあったからです。
そうして車で自宅へ戻り、母の姿を見て、みんなで乾杯。
最期まで自宅で過ごせる安心感
『一週間持たないと思います。救急車を呼んでもベッドが準備できるかわからないし、処置もできないので、お看取りで、という形になります。』と言われたので『了解しました!』と答え、もうとにかく家に帰れる嬉しさ、死などどうでもいい、今を生きたいのだ!という気持ちでいっぱいでした。
それから6月で2年が経ちますが、奇跡的に母は自宅で暮らしています。
疲れやすく、自由に動ける範囲は少ないけれど、天気の良い日は一緒にマックのテラスでお茶したり、古本市へ行ったり、車で遠出することもあります。
友人がお見舞いに来てくれたり、家で映画を観たり、お風呂も入れるようになりました。セオリーでは心臓リハビリテーションをちゃんとクリアして、在宅医療を手配しての退院ですが全部すっ飛ばしての自宅療養。狭心症の発作、心不全の悪化など、急変はあれども無事自治会の副会長をやり遂げ、自宅で生活しています。
ここまできたら好きなことはなんでもやって、最期を自宅で穏やかに迎えて欲しい。いなくなるのは寂しいけど、それが娘としても最高の幸せです。