お医者さんは数値と戦っている

薬が多すぎる気がする

私は特にお医者さんが嫌いなわけでも、医療業界に不信感を持っているわけでもないけれど、やっぱりお医者さんってそうなんだ…と時々思うことがあります。

ウチの母は今心臓病で一進一退を繰り返しながら自宅療養中ですが、心臓病はもともと薬の量が多い。

それはネットでも書いてあったし、お医者さんからも説明があったから仕方がないというか、治らなくてもいいから苦しさだけをできるだけ緩和させたいという目的の元、利用しています。

だけど、何だか毎回薬を調整する度に副作用に苦しむことになるんです。調整というより増える一方なのですが。

何故、間引いたり減らしたりできないのか?私は不思議で、それはもしかしたら母が詳しい検査をしないからかもしれないけど、果たして検査すれば減るかといえばさらに増える気がしてならないのです。

この疑惑は母がコロナに感染した時、確信へと変わりました。

私からコロナがうつったのですが、母は重病人のため海外製のコロナ治療薬が処方されました。これがまたすごい量で一粒が大きく、ドギツイ赤色をしたカプセルでした。これを心臓病の薬に足すので1日20錠を超える薬を飲み続けなければなりません。

さらには痰切り、咳止め、胃薬なども追加。本当にこれを飲まないと助からないのか?甚だ疑問に思うほどの薬の量でした。一方、私は漢方のうがい薬を処方されたのみ。私の方がこの薬に耐えうる体力を持っていると思うし、逆に母の方が漢方薬ではないのか?と思いました。

案の定、母は赤いカプセル一錠で状態が悪化し結局やめて何も飲まずに治りました。結果私より症状は軽く、おそらく他に飲んでる薬がどこかで効いていたんだろうと思います。基礎疾患がある方は日常的に服薬しているので、その効果で花粉症の症状が治っていたりするそうです。母も何かが効いて、コロナが軽く済んだ可能性があります。

まぁ、それが普通であろう、と思いました。

何故、薬を飲むしか方法がないのか?

しかし何故、先生はそれに気づくことなく次から次へと薬を出したがるのか?人って薬でおかしくなることはないのか?小柄で細いおばあちゃんの体がこんな大量の薬を飲んで本当に大丈夫なのだろうか?躊躇なく増えるということは、薬で死ぬことは絶対にないということなのか?謎は深まるばかりです。

救急病院に入院している時も、便秘になれば便秘薬、眠れなければ睡眠薬、鬱々とするのであれば精神安定剤。本当に他にないんですか?と言いたくなります。生意気だろうから言わないけれど。

トドメに食べられなくなれば栄養点滴ですから、痛みも苦しみも取れないまま死ぬことすらできないのです。退院して本当によかったと思っています。

母が便秘の時、むくみで苦しんでいる時、現場で対処しているのは私です。お腹のマッサージや着圧ソックスを提案したり、もしかしたら間違っているのかもしれないけど、それでもいいから今この状況を少しでも良くするために対策します。それで結果、全て改善しています。

お医者さんは私より遥かに頭が良いはずなのに、何故薬しか出せないのだ?と不思議に思います。お腹を押してみたり、何を食べたか聞いてみたり、何故しないのか?何故追求しないのかが不思議なのです。

そこであらためて思いました。お医者さんは数値と戦っているんだな、と。

数値と戦う医療

血液検査の数値を見て、悪いところを上げたり下げたりしたいのだ。下がった結果具合が悪くなればそれをやめて違うものを投下する。方程式と戦っているのであって、患者が一番辛いと思っている箇所がどうなっているかは見なくてもよいのです。

お医者さんはこうやって数々の難関をクリアして国家試験に合格したんです、きっと。私のように現場で応急処置はできるけど、座学と計算ができない人とは真逆の生き物。私は鍼灸マッサージ師になりたての頃、しばらくテキスト片手に『どこに答えが書いてあるのか?』ずっとテキストと格闘していました。

どこに鍼を打てば治るのか?私はまだ新米だから知らないだけで、どこかに答えが書いてあるはずだ、と思っていたのです。しかしそれが全然上手くいかず、先輩に相談したところ『大谷さんはテキストを一回全部捨てましょう。後は想像力です。』と言われました。

何故この人は足を内側に捻ったのに伸びた外側ではなく内側が痛いのか?どうしてだと思うか?想像力働かせて、治ると思うこと全てやったらいい、と言われました。これが私の治療のベースです。

お医者さんの中には数値ではなく患者さんを診る職人タイプの人もいると思います。

お年寄りは調子が悪くて当たり前、医師の中村仁一さんは『熱い風呂が好きなら熱い風呂に入ればよろしい、いちいちそんなこと人に聞かない。しかし医者も医者で「温めの半身浴が望ましい」とのたまう』とバッサリ切っていました。お年寄りにはこのくらいがちょうど良いと思いませんか?

さらに中村仁一さんは『薬はお助けマン。本人の持つ機能を超えることはできないし、大体、徐々に衰えていくというのに高い数値に合わせようとするからしんどくなるんです。』と言っていました。積極的治療というのは、下がった機能や数値を悪として、そこを無理矢理薬で引き上げようとする。

昔からこうだったでしょうか?医療って。

じゃあ医者を利用するな、と言われそうですが、自宅で最後まで過ごすためには医者をつけないと急な場面で必ず救急車を呼ばなければいけなくなるんです。それをしないと『家族は何をしてたんだ?』と不信がられてしまうから、システム上お願いしなければいけないのです。

だから重病人なのに先生の往診は月に一回のみ。先生はもう少し検査して薬の調整などしたいみたいですが、母はこれを拒否しているし、私は検査に耐えられるほどの体力はない気がしています。

そういう選択の結果、明日死ぬと言われて間もなく2年が経とうとしています。

助からないパターンを受け入れる

これは選択の繰り返しが間違っていなかったからではないでしょうか?医療の側からしたら難しいのが患者側に漂う『助けろ』という圧力かもしれない。医療は命を助けることが当たり前で、助からない場合を考えてはいけない。生きることが当たり前で、決して死んではいけない。

子供や若者、事件や事故ならまだしも、寿命が迫っているお年寄りの病気や老化に対しては、そろそろ医療よりも自然で穏やかなケアや思想を育てる必要があると思います。薬に関しても、もっと鎮痛効果重視にしてもいいと思うし、鍼灸マッサージ師だってすごく役に立つんですよ。どうしても機能回復のリハビリで歩行訓練オンリーになりがちですけれども。

高齢化が進み、徐々に死を受け入れる時代の流れになってきてはいるのだろうけど、実際に経験するとまだ全然だなぁ、と思います。

死ぬことが悪いことでもお気の毒でも残念でもないようにしたい。むしろ、一生懸命生きたことに『お疲れ様でした』と明るい笑顔で見送れるようになることが、去り行く人たちにとって最高のリスペクトではないでしょうか。